Cogitatio

思考した事を綴っています

【結婚】「お嬢さんを下さい」という言葉を理解せず使う人達

恋人と結婚を決めて、相手の両親に挨拶に行く。

恋人期間中に親とも交流があればそんなに大変ではないけど、結婚の報告が初対面という場合は、その緊張は尋常じゃない訳です。

私の場合もエラく緊張しましたよ。何せまだ付き合って1ヶ月しか経ってない。人生で彼女とは10回も会ってない状態。

そんな状態でイキナリ相手の両親に「結婚の報告」に行くっていうのは、結構度胸が要ります。

妻は良くできた子なので、事前に根回しや準備もしてくれて、できるだけ自然に話ができる環境を整えてくれてました。

でも、やっぱり緊張するよね。

最初はお土産を渡して、軽くご挨拶して・・・みたいな感じでしたが向こうから話を振ってもらって「○○(妻の名前)さんと結婚したいと考えています」みたいなことを言いました。

そしたらお父さんは「もし、ダメだと言ったら、君はどうするんだ?」と聞いてこられました・・・!

ちょっと焦りましたが、まぁ、この辺のやりとりは割愛して最終的には無事にご挨拶は終了した訳です。

で、こうした相手の両親への挨拶で実はすごく自分の中で曲げたくなかったポリシーがあります。

それは「お嬢さんを下さい」という言葉を使わないということです。

結婚というのは、結婚をする当人(恋人)同士で決めるべきことで相手の両親と相談すべき事ではないと考えてます。まして、妻となる女性は、その両親の所有物ではありません。

だから、女性の両親に「その女性を下さい」とお願いするのは筋違いだと思う訳。あくまで当人同士で決めた結婚を「祝福してくれるか」が大事なポイントなんです。

「お嬢さんを下さい」と依頼する男。「娘をあげるかどうか」と思案する父親。そんな構図は女性蔑視にも等しい。当の女性本人の意思や発言はどこにあるというのか。


本来なら、娘として妻として一番渦中にいる女性自身が率先して話をしてもいいくらいで女性自身が父親と彼氏を互いに紹介するのが寧ろ筋だと思うんです。互いを知らない同士で会話して、唯一互いを知っている人間が蚊帳の外というのは不自然で非効率です。

しかも、本人の存在を無視して「下さい」「あげます」などと男同士で語り合うことは
非常に古めかしく、差別的な男性中心のしきたりに思えます。

なぜ、女性は男性の親に「下さい」と言わないのに男性は女性の親に「下さい」と言う風習があるんでしょうか。

女性は男性の姓を名乗ることが多く、それは女性側の家から男性側の家へ入る(嫁ぐ)という意味合いを含むと考えられています。だから、女性側の家に対して「男性側の家へ入ってもらいたい」という意味を込めて「下さい」という表現が生まれるんでしょうね。

実際に、そういう思い(本当に女性を自分の家にもらってくるという思い)が強い者からすればそれは嘘ではないでしょうが、少なくとも私は恋人をそんな気持ちで見た事はありません。

もしかすると、相手の親が古く堅い頭をしていて、「お嬢さんを下さい」と言わなければ認めてくれない悲劇的な状況もあるかもしれません。


私はそれでも言いたくありませんので、色々自分の思いを伝える方法を考えるでしょうが、少なくとも、”相手がそんな物言いを求めていないのに”自分から率先して「娘さんをください」等と云うのは愚の骨頂です。

第一、私は、自分が相手の姓になっても全然構わないし、別姓でも全然構わないと思ってます。というかそもそも私は「姓不要論者」なので、姓なんてどうだっていいのですがそんな下らないものに固執して「やる・やらない」「嫁ぐ・嫁がれる」などと、うるさく言うことが馬鹿馬鹿しくて堪りません。

大事なことは、男女が愛し合って結婚したいと思うこと。それが最も先に来るべきではないでしょうか。一人の大人として認め、愛した相手であるにも関わらず一方で「誰かの所有物である」と仮定することが既にありえない発想なんです。
もしくは、そう思っていないのに「下さい」などという発言をするのであれば、重要な場面であるだけに非常に無責任な発言だと言わざるを得ません。

だから、私は「娘さんを下さい」といった類の言葉は決して使いたくありませんでしたし、実際そのような言い回しは一度もしませんでした。

私は彼女を「誰かの所有物」だとは思っていませんし「私の所有物にしたい」とも思っていませんから当然の事です。

もちろん今でも彼女は誰の所有物でもありません。独立した人間として周りと社会性を持ち、私や子供や両親との関係を大切にしている一人の女性だと考えています。

蛇足ですが、無論自分の娘の事も「私の物だ」などと思っていません。「大事な私の娘」であるだけで「誰かにあげるかどうか」を決める権限は持っていません。出来る事は、ただ「親としての責任」と「娘への愛情」から生まれる指導やアドバイスだけでしょう。

効果がないものを信じるという事

宗教的な勧誘に騙されて「高価な壺を買わされた」なんていうのは、詐欺商法の代表格としてよくネタにされますよね。

実際そんな壺には何の価値もないのに所有することで「幸せ」になったり「厄」が落ちたりするという事なんだけど、似たようなもので(下世話な)雑誌の裏表紙などによく掲載されてる「パワーストーン系」もありますよね。この石を持っているだけで「恋人」ができたり、「金持ち」になったりする訳です。

これらは世間的に非常に「いかがわしいモノ」として分類され、そんなものを信じて買うのは愚かしいと言われます。

「持ってるだけで特殊な効果が生まれる」なんてシロモノは基本的に嘘ですから、私もそんなものを買う奴の気がしれないと思ってます。

ただ、私は「壺やパワーストーンを買う奴は馬鹿だ」と言いながら神社では「交通安全」や「家内安全」のお守りを信じて買う人たちも突き詰めれば同類だと思っています。

理屈上、壺もパワーストーンも神社のお守りも、全く同じものです。同系列です。売りつける側が「騙して儲けてやろう」と思ってるかどうかの違いはあるかもしれませんが物質的な効果はどれも等しく「皆無」ですよね。

神社に初詣なんかに行ったら、訳のわからんお守りめいたものが山積みになって1500円とかで売られてます。それを並んで買ってる詣客達を見るにつけ、この人たちが買ってるのはパワーストーンや壺と同じだな。って思う訳です。

それを「神社側は悪意がある訳ではなく、儲けの為にやってる訳でもないから正しい」というならばパワーストーンや壺も「本気で幸せになれる」と思って売っている業者がいたら、それは正しい商売だと言わなきゃいけない。

また、購入者側の心理に立ってみれば実際には効果がないものに対して「信じる」という行為によって価値づけをしている訳です。だから、お守りもパワーストーンも「信じた者」にとっては等しく価値があります。たとえそれが、売り手側に「悪意」があろうとなかろうと、購入者の心理効果には無関係。

「悪意」があるからダメという事と「パワーストーン」には効果があるかなしかという事とは別問題だということをまずは理解しないといけません。

だから、もし壺やパワーストーンの販売を詐欺として取り締まるならば、価値のないモノを「価値がある」として売っているという意味において神社のお守り販売も取り締まらないといけなくなります。

とはいえ、これはホント紙一重。例えば、まるで浄化されない「浄水器」を売りつけたら明らかな詐欺ですよね。だけど、現状パワーストーンはそういう意味では詐欺にあたっていないケースがほとんどです。どっちも「効果がない」のに「効果がある」と嘘をついて売りつけている訳だから同じ詐欺行為とみなされないとおかしいと思いませんか?

もちろん「必ず効果があるとは限りません」といった妙な注釈を付けることで責任を逃れているケースもあるでしょうが、その場合も「少なからず効果があるという事実」があって初めて「効果が出ない場合もありうる」のであって「常に効果がない」のであれば、それはやはり詐欺じゃないかと思う訳。

もちろんこの場合の「効果」とは、パワーストーンを身に付けた効果であることが客観的に評価できる必要があって、たまたま金持ちになったり、恋人ができたりでは「効果」とは言えませんよね。

浄水器との違いとして、数値化できない効果を謳う事で、立証責任を逃れているとも言えるかもしれません。しかしながら、数値化できないものであっても「効果を謳う」限りは「使用した場合」と「しなかった場合」の客観的評価がなければやはり虚偽になるはずで商売として見れば「詐欺」と呼ばれて然るべきでしょう。

例えば、特定の効果があると言われるパワーストーンをある1,000人に持たせ、別の1,000人には持たせない。半年から1年かけて検証し、有意な差が生じたかどうかを分析する。このような検証がされない限りはその効果の程はわからないでしょうし、逆にそうした検証もしないのに、なぜ効果があるなどと言い張る事が出来るのかがわかりません。あるいは、化学構造的に何らかの特徴があるならばそれを根拠として示すべきでしょう。

ですから「効果がある」と謳う為には下記のいずれかが必要なのです。

・理由は分からないが、明らかに検証の結果、有意差が生まれている。
 (信じた者による心理作用ではなく、客観的評価が出来る有意差)
・実際に大多数での検証はまだ行われていないが、明らかに化学的な根拠が存在する。

もちろんその両方が揃ってこそ信憑性は増すのですが、少なくとも上記のうちどちらかはないと全く信ずるに値しない。という事になります。

もう一度整理してみましょう。

効果の有無について、客観性を欠いた「本人の感覚」だけに正誤を委ねるのであれば何の効果もない「偽の浄水器」だって詐欺とは言えなくなってしまいます。それを付けるだけで「浄水されたような感覚」「水の味が変わったような感覚」をプラシーボ的に得る人はいるでしょう。なので「本人の感覚」というあやふやなものに頼った「詐欺判定」は行われるべきではないですよね。

効果の指標として大事なのは「謳った効果に客観的事実性があるかどうか」でしょう。その意味で「偽浄水器」はもちろんの事「パワーストーン」も謳った効果には事実性がない。検証されたのであれば、そのデータを出すべきだけど、データが存在しないのであればそれは「偽物」であると言わざるを得ない訳です。

だけども、先に述べた通り「偽浄水器」は明らかな詐欺とされるのに「パワーストーン」が詐欺として取り締まられる事がほとんどありません。これが何故かと考えたときに見えてくるのが「神社などで売られるお守りは詐欺にあたらない」という欺瞞なんじゃないでしょうか。

我々の社会・文化において「お守り」を詐欺にできない以上、それと同じ論理の商品を詐欺にする訳にはいかない気がします。法律っていうのは整合性がなきゃいけないので同じ類のものが二つあったとき、両方とも認めるか、両方とも処罰するしかなくなります。そして「お守り」を処罰する訳にはいかない日本人は、パワーストーンも処罰できなくなるんじゃないでしょうか。

ちなみに法律上の「詐欺罪」とは「故意性」がなければ立証できません。先ほども述べましたが、「効果がない」とわかっていながら「効果がある」と嘘をついて商売をするのは「故意性」があるから「詐欺」とみなされます。一方「効果がある」と考えて商売をしていたが、実際には「効果がなかった」とするのは「詐欺」にはならないのです。但し、通常「効果がある」と宣伝する限りは、その理由をきちんと説明しなければいけないですよね。その説明がないのは全く無責任なんですけども、パワーストーンやお守りは、この理由説明がないまま許容されています。

かくして、神社のお守りやパワーストーンは「詐欺行為」として取り締まられず、高額な壺や、偽浄水器などは「詐欺行為」として取り締まられる。という謎の線引きがなされている訳です。

「効果がない。証明できないモノ」をあたかも「効果、ご利益がある」というように嘘をついて販売している以上、偽浄水器も壺もパワーストーンもお守りも全部消費者を騙している事は同じです。

これを読んでる諸君のうちの何割かは「え、それって全部同じかなぁ?少なくともお守りは違うんじゃない?」と感じているんじゃないかと思います。むしろ現実にはそっちの感覚の方が圧倒的多数かもしれない。非合理であることがマジョリティで、私のような思考はマイノリティ。私はそういう非合理を生み出している「宗教寛容社会」が好きになれません。

信じて「お守り」を買うのにそんな合理性やなんやらで目くじら立てなさんな。という意見もわかります。だけど、それを認めたらパワーストーンを認めないといけなくなり、壺を認めなければいけなくなり、偽浄水器を認めることになります。金額の大小や悪意の有無という曖昧な線引きをしてしまうと様々な歪がうまれます。

まぁ、お守りを買う行為自体は批判しませんよ。場合によっては、アレはただのストラップであり、ただの小物雑貨だから。また時として旅行の思い出だったりもするだろうし。人からもらった時なんかも、その人の自分への気持ちとして大切にします。でも「お守り自身」が物理的に効果を発揮する訳ではありません。ゴミだと思えばいつでも捨てます。

家電メーカーが「効果が立証できなかった」事により注意勧告を受ける事がありますが、あれは「効果があると謳っているのに、事実性がない」という理由によって批判される訳ですよね?だったら神社にも「注意勧告」をしなければいけなくなるのでは?と思うわけです。

 

「事実性がなくても構わない」そして「それを販売しても構わない」という事になってしまえば、その辺の石ころを拾ってきて「力が宿っている」と言って10万円で売るのも自由だし、おまじないを書いた紙切れ一枚を「健康になるから」と100万円で売ってもいいことになってしまいます。

はじめに

昔から論文ともエッセイとも付かないような、落書きだったり持論提起だったりを沢山書き溜めていたので、体裁を整えつつここで掲載していきたいと思います。

記事によって文体が違っていたりしますが、内容によって「敢えて」適した文体を選んでいるという事でご理解頂ければと思います。

今となっては「若い意見だなぁ」とか「ちょっと古い根拠だな」と思われるものもありますが、当時の自分の主張を尊重して振り返りながら楽しみたいと思います。

ちなみに掲載順は実際に書いた時期とは異なります。