【宗教】手をかざすと病気が治ったという欺瞞的エピソード
ちょこちょこ郵便ボックスに放り込まれる宗教のチラシ。
掌をかざしたら白血病が治った。とかいう奇跡エピソードが載ってたんだけど、こういうのホント好きになれない。
仮に、仮にですよ? 掌をかざしたら白血病を治せるような奇跡の力を持ってる人間がいるなら、その人は病院に常駐して次々と白血病患者を治すべきなんですよ。
「黙々と、誰に評価されなくても、自分の奇跡の力を信じて、苦しむ人を助ける」
それこそが、本当に素晴らしい力の使い方じゃないかね?
「特定の人しか治さず、それを宣伝に使って、宗教の布教を図る」
この時点で、どうしても納得いかない。
宗教が「多くの命を救うために、少ない命を犠牲にする」なんて政治家みたいな打算をし始めたら終わりです。未来に多くの人が死ぬ可能性があっても、今、目の前にある一つの命を見捨てない心が宗教家には求められるのではないでしょうか?
だとすれば、目の前の患者を無視して布教活動をしている暇なんてないはずです。不治の病を治す奇跡の力が本当にあるのだとすれば、次々と病院に運び込まれる患者を治し続けるべきです。
違いますか?
正直、こういう側面があるから宗教の奇跡話やら布教活動には欺瞞しか感じません。
本当に人の幸せを願うのに、でっち上げの奇跡話は要らない。
嘘か本当か分からないものを盲目的に信じることなく、ただ目の前の事実に対してひたむきに生きる人々の方がよほど素晴らしい。
人が正しく生きるのに宗教が必須だと考えるのは、宗教家たちの驕りです。そして現代においても、宗教が1000年前と大きく変わっていないのは宗教家たちの怠慢です。
宗教はどこへ向かうべきか。何を目指すべきか。
それを考えず、経典や戒律を守って生きるだけの宗教家は宗教家ではありません。ただの「信者」です。
現代人は欺瞞から逃れられない宗教によって生きるのではなく、思想や哲学によって生きるべきです。神や奇跡が「真実」であった時代とは異なるんです。
人類の長い歴史の中で捉えるなら、宗教を捨て去る事が、宗教家が行うべき最後の尊い活動だと思います。
それがいつやってくるかは分かりませんし、難しい行為だと思いますが、ただ宗教にしがみつくのはもっとも宗教的行為から遠いと思います。思い、考え、自らの歴史を批判し、それゆえに苦悩する。そうした真摯な取り組みが大事です。
ですから私は、宗教家は宗教家であるがゆえに、宗教を捨てなければいけない日がいつかやって来るはずだと考えています。
イエスも仏陀も、既存宗教を批判し、宗教からの脱却を図ろうとしました。現代のイエスや仏陀が、宗教家達の中から現れなければいけません。
何らかの宗教を信仰している人に言いたい。
「信者であるな。宗教家であれ」