Cogitatio

思考した事を綴っています

【結婚】信じてもいない神に誓う人達

教会でも、神社でも同じなんだけど、要するに神に誓ったり、神の許可を得たりする行為が嫌いです。

私は「神はいない」と心底思ってるので、そんな私が「神に誓う」なんて行為は完全なる大嘘であり、欺瞞な訳。

ただね。「神がいる」と思っている人にとって「神に誓う」という行為は矛盾はしていない。むしろ今回は普段「神はいない」と思っているクセに、こんな時だけ「神に誓う」という矛盾した人たちを批判したい。

そもそも、そういう「信じてもいない神に結婚式で誓った」という無責任な人たちは結構多いと想像してます。貴方は違いますか?

大体「思ってもいないこと」を、いけしゃあしゃあと人前で(それも神妙な顔で真面目に)誓ってしまうなんて、もしくは「誓ったフリ」をするなんてのは、そもそも集まってくれた友人や家族に対して失礼だと思う訳ですよ。

これから、結婚し、新たな家庭をつくる。そして、それは互いの両親はもちろん、いろんな人間関係を新たに築いていく。だから、きっときちんとした場所(イベント)を設けて、大切な人々の前で報告したいって思うわけだよね。

そういう誠実な場所に「嘘」や「欺瞞」なんかを取り入れるべきじゃないと思うんだな。

報告するなら、堂々と、自分が思ってる気持や決意を報告すればいい。わざわざ嘘偽りの演技を報告する必要性がどこにある?まして、それは本質的な意味では来てくれた人に対する「侮辱」だと言う事になぜ気づかない?

「私は神に誓います」なんて神を信じてない奴が言うんであれば「じゃ、俺はあそこのロウソク立てに誓います」って言ってもおんなじこと。(自分にとって)価値のないものに誓いを立てる。というのは、その誓い自体が価値のないものだし配偶者をバカにしているようにしか思えない。

自分が以前より大事にしてきて、本当に思いの強い対象に対して「誓う」なら重みも感じるけど今まで深く意識した事も、大切にした事もないようなものに対して「私はこれに誓うよ」とか言われても意味がわからない。(お前を愛する事をあのロウソク立てに誓うよ。って言われたら、物凄くバカにされてるように思わないかね?)

どうせ誓うなら、興味もない神じゃなく目の前にいる私に誓えよ。と思う。

「いや、それは、まぁ、そういう決まり事なんだよ。きっと」みたいないい加減な気持ちなんだったら、それも理解できん。

結婚って、君たちにとってそんないい加減なもんなのか?自分の意志や思いと反して「さらっとこなせばいい」っていうような安っぽいものなのか?あるいは、学芸会みたいに演じて「あー。それっぽくできた」って言うレベルのもんなのか?そんな安っぽいものなのであればやらんでいい。高い金掛けて、忙しいみんなをかき集めて実施するだけの必要性もないし、集まってくれた人に失礼だ。

最近は「人前式」なるものも一般化してる。神に誓うのではなく、来てくれた友人、両親などに誓うというもの。でも、それも意味の後付けじゃないかどうか考えて欲しい。

「人前式」はいわゆる「自宅結婚式」と近いスタイルであり「神前式」よりも古来、村社会での結婚式のあり方だったとの反駁もあるかもしれない。また、みんなの前で結婚する事を誓いたい。と心から思う者もいるかもしれない。だから、はじめからその思いで「結婚式」をしたい。と思うなら、それはとても良い事だと思う。

でもね。それが「結婚式はする。だけど神前はイヤだから、人前にしよう」みたいな気持ちだったとしたらこれは順序が逆なの。今行われている「人前式」ってのは、結構、結婚式は行う前提で「こういう方式もありますよ」って後付けで提案されて妙に納得してやってるだけのケースが多いんじゃないかと思うのよ。

じゃあね、根本的な事を聞くけど、そもそも「結婚式」はしなきゃいかんもんなのか?

キミらがやった結婚式は本当に大勢の人をかき集めてでも、何かを伝えたいっていう思いから立ち上げたイベントなのか?その気持ちが最初にあって、その上で内容を考えていったものかね?ひょっとして、その最も大事な大前提について実は何も考えてなかったんじゃないか?って疑問もある訳さ。

私個人としては、大切な人たちを呼ぶ大事なイベントだと考えるのであれば、それこそ、そこはちゃんと自分で理解して納得して行うべきだと思う訳。ホントに大事なのは「こなす」ことじゃなくて「意味と目的を持って行う」ことでしょ。そこがすっぽり抜け落ちたようなイベントは、来てくれた人に失礼なんだという事を理解してもらいたい。

みんな、どのようにするか(How)ばっかり考えて何をすべきか(What)を考えてない。

一番大事なのは「どのように行うか」以前に「何をすべきか」じゃないのか?そこに何の疑問も抱かず「結婚式はやって当たり前」という前提に立って「どのようにするか」ばっかりを拘って考えるのは本末転倒、枝葉末節に過ぎるんじゃないか?

「私たちは結婚式を執り行うべきかどうか」「もしやるとすれば、それはどのような意味を持って行うべきか」正直に言ってそれらについて考えた結果だと思える結婚式には滅多に出会わない。みんな何も考えずに、ただただ「結婚式」を演じてこなしてるようにしか見えない。

私は「キリスト教でもないのにクリスマスを祝うなよ」とかそんな低レベルの事を言ってるんじゃないの。クリスマスなんてただの遊びイベントであり、日常のアクセントに過ぎない。要するに遊ぶ口実にしてるだけだから、どうだっていい訳。更には、大体、本来の意味のクリスマスを祝ってるやつなんて滅多にいないし、だから「嘘の発言」もないし「誰かに失礼」であるわけでもない。

でも、結婚ってそんなただの遊び事とは違うでしょ?

恋人同士でただ街で遊ぶのとは違って、お互いの家族とか呼ぶんでしょ?大事な友人を招待するんでしょ?結婚相手の両親の前で発言するんでしょ?大事な友人や同僚や親戚が、あなたたちの為に集まってくれて、時として祝儀という形でお金まで包んでくれるんでしょ?

それって大変な事なんだよ?

で、私の場合はそんな場所に「嘘」や「欺瞞」は持ち込みたくない訳。まして、それを周囲の人に宣言するなんてことは、自分自身で許せない。だから少なくとも「神に誓う結婚式」は絶対やらない。そして訳の分からない妥協の産物として「じゃ、人前式でやろう」なんて本末転倒な発想には絶対にならない。

「いやいや、まぁ、厳しく言えばそうだけど、実際は当人はもちろん、来てくれた家族や友人も、本気で『神に誓いを立ててる』とは思ってないんだよ」なんて諌められそうだけど、だったら猶更そんな茶番みたいな、学芸会みたいなもん金を掛けてやる価値はないと思うのだがいかが?むしろ神を信じる奴らに失礼だ。牧師や神父や神主に失礼だ。更には、逆にそれをわかっていながら執り行ってる教会や神社も無責任だ。その程度の宗教心でやってるなんざ、その思想の"程度の低さ"が片腹痛い。職業宗教とはよく言ったもんだ。

幸い、私は結婚式をやらずに済んだ。

世間の理不尽な強制に押しつぶされて、自分に嘘を付かずに済んだのでホッとしてる。
でも、これは「結婚式なんかしたくねー」っていう同じ思いを妻が持ってくれてたからです。そんな妻だからこそ気が合って結婚したんだろうけどね。また、双方の両親がそんな二人の思いを尊重してくれた(我慢した訳ではなく、本人たちの考えが大事だと理解してくれていた)ことは幸いでした。