Cogitatio

思考した事を綴っています

日本放送協会の放送受信契約に同意できない理由と要望事項

私は日本放送協会NHK)の受信料制度について反対の意思を持っております。その理由と協会への要望事項を認めておきたいと思います。

NHKとの契約を拒否される方の中には、一切の対話を拒絶されたり、あるいは非常に強い感情的な口調で非難される方もいますが、私はそのような態度を取る事には賛同しません。あくまできちんとコミュニケーションを取り、適切な制度へ向かわれる事を望む立場であります。その上で現行の制度にはどうしても納得がいかないというのが現在の考えとなります。

まず、放送法において「受信設備を設置した者は、協会との契約義務がある」と謳われていますが、その内容の大半は協会が定める規約に一任されています。ですから適切な契約内容を作る責任が協会に課せられていると解釈しております。

 

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(受信契約及び受信料)

第六四条 協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であつて、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第百二十六条第一項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。

2 協会は、あらかじめ、総務大臣の認可を受けた基準によるのでなければ、前項本文の規定により契約を締結した者から徴収する受信料を免除してはならない。

3 協会は、第一項の契約の条項については、あらかじめ、総務大臣の認可を受けなければならない。これを変更しようとするときも、同様とする。

4 協会の放送を受信し、その内容に変更を加えないで同時にその再放送をする放送は、これを協会の放送とみなして前三項の規定を適用する。

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しかしながら日本放送協会が行っている契約行為とその内容には課題を感じており、この点の解消あるいは了承なくして自らの意志で契約手続きを行う事は出来ませんので、契約合意に至る為の検討要望を挙げさせていただきます。

 

【問題点①】

「受信設備保有者という条件において一律的に受信料を請求される事について納得できませんので是正を検討頂けませんでしょうか。」

まず、放送法では「一律的に定められた金額を払う責務」は謳われていません。放送法ではあくまで「放送の受信を目的とした受信設備を設置した場合に契約する義務」が謳われているだけで、利用内容に応じて支払額を変えたり、適正な請求の仕組みにすることは協会が検討し、総務大臣の許可を得るべき部分です。しかしながら現状は協会に最も都合のよい「利用状況に関わらず一律料金を支払いなさい」という制度で建付けられています。(これが総務大臣の認可を受けている事は承知しております)

また、先の法的議論において日本放送協会は【災害や有事の際に「国民に情報を正確で具体的に提供し、国民が自らの生命、身体、財産などを最大限守るために適切な行動をとれるようにする重大な社会的使命がある」と記述。受信設備を設置すると「重要な情報にアクセスできる地位が確保される」】と述べられましたが、ここに受信する側の意思は全く反映されていません。重要な情報に「アクセス“できない”者」は支払い義務がないが「アクセス“しない”者」は支払い義務があるとする論理には整合性がないように思われます。

なぜならば、かつて放送受信設備は一般的にテレビを指し「NHKを視聴する事」がその設置目的の多くを占めていた可能性がありますが、昨今では放送受信設備はテレビコンテンツ以外の多種多様な用途で利用できる設備へと変化し、その他の目的で放送受信設備を購入する者が増えたと推測するからです。現代において例えばテレビの場合、Blu-ray視聴用途、ゲームモニター用途、オンデマンドサービス用途、インターネットサービス用途など多岐に渡る用途のごく一部であるNHK放送のサービスホルダーであるというだけで、設備全般に及ぶ強権を持つことが許されている。という事は非常に大きな問題だと考えております。以前NHKが映らないテレビ発売というような話題もありましたが、現実的にはNHKだけが映らないテレビは様々な権利規格問題もあり実現が封じられています。平たく言えば、フジテレビを観るのもTBSを観るのも、NHK受信と一体化していると解釈しています。

つまり「テレビを保有すればNHKの放送にアクセスできる地位が確保される」との見解は放送協会側の一方的な強要であり、視聴者側の立場で見るならば「別目的で放送受信設備を購入した者」と「そもそも放送受信設備を購入していない者」の間には、視聴意思がないという意味において全く違いがないのです。放送法においても「放送の受信が出来る設備でありながら、放送の受信を目的としない受信設備についてはこの限りではない(契約義務が強制されない)」との説明があります。

しかるに日本放送協会では「放送の視聴意思(目的意思)」と「支払い義務」とは無関係である。という立場ですから、突き詰めるならば「受信設備の保有有無」ですら「支払い義務」とは無関係であると言わざるを得ません。この両者を分かつのは「受信設備の保有という要件が放送法に定められているから」という一点に尽きるものと考えております。しかしながら、放送法の定めがある事自体は何の本質でもなく、なぜ今現在においても放送法では「放送受信設備の保有」という点を契約義務の要件とされているのか、また、保有が契約義務と紐づく前提に立つならば、次に何によってその支払額が定められるかを、現状に即して議論する必要があると考えます。

私が考える日本放送協会が採るべき方向性は3つあります。

1.視聴内容に応じて受信料を徴収する(オンデマンド課金)

2.全ての家庭に受信設備器を設置し、社会的使命を果たす対価として受信料を徴収する。

3.受信設備器の設置有無とは無関係に、社会的使命を果たす対価として全ての世帯から受信料を徴収する。

「1」は言わずもがなですが、サービスを受けたい者が払えばよい。という最も合理的な考え方です。もちろん放送法に則り受信契約は致します。しかしながらその受信契約内において「どのようなケースでは、幾ら支払うのか」を柔軟にプラン化されるのが良いと考えています。受信契約は総務大臣の認可が必要な為、その内容は日本放送協会側が一律規約として承認を取られるべきと考えます。また、オンデマンドについては単なるゼロイチ議論ではなく、例えば視聴時間、視聴コンテンツなどに応じて複数構造の課金体系を検討されるのも一つかと思います。災害時の緊急放送は視聴するが、日常的なドラマ、スポーツ類の視聴はしない為、それに準じた支払い額を設定する。などです。サービスの享受内容に応じて支払いを行うので最も合理的で公平な料金負担となります。(つまり、沢山の電気を使った世帯は多くの電気代を支払い、少ない世帯は少額で良い。という考え方です)

しかしながら、日本放送協会ではオンデマンド方式での課金ルールにした場合、社会的弱者、マイノリティに不利な課金構造となるとの判断、すなわち「社会的使命に対する公平負担が崩れる」という理由によって、視聴意思のない者からも徴収なさろうとしていると理解しています。

そこで次のご提案は「2」です。国民の保護という重大使命を果たす為には、NHK視聴が欠かせないというご主張ですから受信設備のない国民には受信設備を設置頂く必要があります。そこで日本放送協会の責任において受信設備のない世帯へは設備を無償貸与されるのはいかがでしょうか?そうすれば全ての世帯が受信設備設置世帯となり、視聴意思や設置確認とは無関係に全世帯から受信料の徴収が可能となります。

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(目的)

第一五条 協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送(国内放送である基幹放送をいう。以下同じ。)を行うとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び協会国際衛星放送を行うことを目的とする。

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との放送法の定めもございますから、「あまねく日本全国において受信できるように」活動する内容として、受信設備そのものの普及、支給に取り組まれる事も協会の活動目的として外れてはいないものと解釈しております。契約率を限りなく100%に近づけるとともに、全体の受信料の減額を検討頂ければと考えます。もちろん、家庭環境に応じた免除規定、減額規定も一緒に議論頂く必要があろうかと思います。

但し、現実的に受信設備を支給・配布する経費計上に賛同を得る為には、まず日本放送協会が述べる「国民の保護にはNHK視聴が不可欠である」という定義が国民に承認される必要があると考えます。果たして、本当に国民の保護にはNHK視聴は不可欠なのでしょうか。放送受信設備を持たない世帯は著しくリスクを負った生活を強いられているのでしょうか。もしそうであれば、やはり全世帯への強制支給が求められるべきですし、そうでないのであれば「不可欠」とまでは言えない事になります。この点においてご見解をお聞かせ頂きたいと考えます。

私個人の意見となりますが、今や国民保護の様々な情報はインターネットを通じ、時としてNHK放送よりも早く国民に伝えられる時代になりました。政府ですらインターネットを通じた情報発信を行っております。こうした時代の変化を鑑みますと「国民保護の為にNHK視聴が不可欠である」とまで断言するのは困難ではないでしょうか。そこで次に逆の発想として「3」の案を考えました。

「放送受信設備の設置は国民の自由意思である。しかしながら、国民に対する社会的使命が日本放送協会にある」との協会の見解に基づき、受信設備の設置の有無とは無関係に全ての国民から徴収する制度にするのです。なぜならばNHKを見る意思がない者からも公平負担を頂きたい、と主張されるなら、受信設備を保有する意思のない者にも公平に負担頂くべきだからです。例えば公共サービスに対する税負担などは実際に利用しない者も結果的に公平に負担しています。それは社会参加という義務・権利において特定のサービスではなく全体サービスの公平負担を国民は行うべきだからです。この考え方に則り、日本放送協会が果たす社会的使命においても、NHK放送を見るか見ないか、設備を設置するかしないか、に関わらず日本社会を支える国民の公平負担として徴収するのです。これは非常に透明性と公平性が高い案として強く推薦致します。放送法の改正は必要になりますが、税収にせず公共放送への公平負担という形で施行できる可能性はないでしょうか。放送法に於いては第六十四条にて「日本国に居住する全ての世帯(定義は必要)は、公共福祉、国民の保護を目的とした公共放送の運営負担を行うものとする。(免除・減額規定は別途定める)」といった内容に改めるのが良いと考えます。

少なくとも、現在の受信料に対する考え方は御団体の主張と整合性が取れていませんので、私の提案する1~3の検討案あるいはその他整合性ある制度への是正あるいは是正に向けた検討を行って頂きたく思います。

本検討に対しては受信料の負担主への情報開示(ロードマップ等含め)が必要と考えておりますので併せてご検討下さい。


【問題点②】

「現在の契約では、御団体が受信料を一方的に値上げできる、また一方的に受信料徴収対象を追加できる強権的契約内容となっておりますので是正を検討下さい。」

現状の規約内容によると、一度合意(契約)してしまえば、御団体は後から幾らでも受信料を引き上げる事が出来、更に課金対象製品・サービスの追加拡張も自由に行えることになっております。例えば、インターネットを利用できる者は日本放送協会との契約が必要になる。というように、後から生まれた世の中の巨大なインフラに相乗りする事で、いくらでも課金対象を広げる事が出来る契約になっており、契約者にとって非常にリスクの高い内容となっています。

仮に、数年前に取得した「電子レンジ」にあとからNHK視聴機能が実装された場合、今の論理では受信契約を求める事になりますが、これを「受信を目的とした機器を設置した」と本当に言えるのでしょうか?購入した際には「受信を目的としていなかった」のは明らかではないでしょうか。

この点について【問題点①】の考え方と組み合わせた、被契約者と契約者が平等な権利を持つ内容に是正、あるいは是正検討頂きたいと思います。

まず、行うべきは同意を行った時点の価格は原則的に担保される事(引き下げはあっても、引き上げが自由に出来ない契約とする事)、次に、もし【問題点①】の検討において「1」を採用される場合は対象サービスの拡大については、そのルールが制定されて以降に入手した場合に限る事。といった整合性の検討が必要になると考えます。 

ちなみに、一般的な他のサービスでも提供者側が価格改定や対象範囲の拡大を行うケースはあります(水道、電気、通信など)。しかしながら、この場合契約者には「サービス内容に同意できない場合は解約できる」という権利が与えられています。日本放送協会放送受信契約には「規約変更に伴って同意できなくなった」との理由での解約が認められませんので、より一層慎重な内容吟味を誠実に行って頂くべきと考えております。

先に述べましたが「従いたくなければ受信機器を廃棄すればよい」という横暴論をかざされるのであれば、同時に「NHKを受信できないテレビを認める」などのNHK以外のコンテンツ利用者に対する配慮がなければ不誠実と言わざるを得ません。

 

【問題点③】

「受信設備を取得(保持)する事が実質的に日本放送協会との契約を同意したと解釈されるのであれば設備取得時に契約手続きが履行されるべきですから、その方法論を検討下さい。」

先述した【問題点①】の検討が行われず受信設備の設置が契約と結びつく(購入者の視聴意思は問わない)場合、設備取得に際して契約手続きを条件としなければ不合理であると考えます。

例えば、携帯電話販売店は「契約手続き完了後にしか機器を提供しない。あるいはサービスを開始しない」という契約代行の役割を担っています。消費者は説明を受け、疑問点を解消した上で契約に合意します。そしてこの契約を超えた設備、サービスに対する支払い義務は発生しません。(例えばこの契約を使って、今後取得する別の機器にも支払い義務を課すといった拡大解釈を行わない。という事です)

日本放送協会の受信契約はこのプロセスを採らず、設備を保有した後で義務的な契約を促し、且つあとから対象範囲を拡大できる規約となっている為、既存の資産に対し後付けで請求権を行使できる非常に不誠実な契約手順となっています。

また、説明責任についてテレビを販売する家電量販店などに要請しているという説明も訪問員の方からありましたが、明確なルールも監査も行わず、最終的にその杜撰なプロセスの責任転嫁をされている日本放送協会側にこそ問題があると考えます。購入後に契約同意できなければ購入金額で返品が出来る、という保証もされていないにも関わらず、わざと購入前に契約同意を採らない契約プロセスは非常に詐欺的です。早急な是正検討をお願いしたい点です。

例えば、現状であればB-CASカードの所有を登録制にする。既に登録されている顧客がテレビを購入されている場合にはデータベースに登録照合を行い、確認が取れた上でしかテレビを販売できなくする。などです。当然、その時点で登録対象になっていない設備を販売した場合、その設備にその後課金対象が及ぶことはないようにするという問題②の検討との整合性は図られなければいけません。

こうした登録・確認の仕組みがなく、販売した後に後出しで「実はそれには契約と支払いが必須です」といつでも言える権利が特定の組織(今回は御団体)に認められてしまうと、世の中のあらゆる資産は後付けで何らかの課金請求が発生するリスクを負った上でしか取得できなくなってしまいますので、そのような危険なルールを一般市場に認めるべきではないと考えております。これは日本放送協会だけの問題ではなく、あらゆる購買とその条件、資産保有に関する一般制度としての危うさに繋がります。

また、このような方式であるからこそ、本当は受信設備を保有しているのに「保有していない」と主張すれば受信契約を免れる事が出来るというような単純な契約逃れを防ぐことが出来ないのです。この事実を知りながら改善検討をしないというのは、受信料を支払っている世帯に対しても非常に不誠実であると言わざるを得ません。

 

【問題点④】

「受信契約の訪問方式とその運用コストが無駄ですので制度の廃止を検討願えませんでしょうか。」

予算に関する情報を拝見すると、年間約7,000億円の支出のうち受信契約および受信料の収納に関して735億円(約10%)が使われています。内訳が細かく分かりませんが、まず受託会社含めた訪問による受信契約依頼の活動にどれだけ使われているのか教えてください。また、この一連のプロセスの見直しとコスト削減について検討頂きたく思います。

先に述べましたとおり、本来であれば受信設備を所有した時に行われる契約をその時点で行わず、後から契約を各家庭、組織に対して促していく方式の為、明らかに無駄なコスト(訪問員の人件費、時間、手続きに関する環境)が発生し、そのコストを受信料に転嫁する構造になっていますが、その不適切な活動資金の負担を受け入れる事には承服しかねます。

まずは【問題点③】で述べたとおり受信料対象設備/サービスの取得時に契約が完了する方式に改める、あるいは【問題点①】で述べたように全ての国民から徴収する制度に改めるなどの検討の上で、受信契約を個別訪問によって取り付けるという方式を廃止、掛かるコストを抑制する方法を検討下さい。

ちなみに、現時点におきましても日本放送協会から受託を受けて訪問される方々への教育がしっかりなされていない問題がございます。過去に訪れた全ての担当者が、規約など契約内容の提示、説明、同意プロセスを踏まれませんでした。契約行為において、契約内容の説明と同意は必須事項であると考えております。更には「受信設備設置者の9割が契約されている」といった嘘(あるいは遥か昔にそのような時代があったとすれば作為的)をお話されるケースもありました。こうした訪問員の質の是正(単なる意思表示や教育宣言だけではなく、どうすれば構造的な不備がなくなるかの具体的方法論も含め)は早急に必要であろうと考えます。

また、訪問員の方へはここまで述べてきた「疑問提起と改善依頼」を毎回行っているにも関わらず、次に訪問員がお越しになる時には、何の継続性もなくリセットされた会話が始まります。本来であれば、訪問員の方と対話した内容は記録され、次回別の方が訪問される際にもその内容が引き継がれ、次の段階の対話がされるべきだと思います。一度や二度の対話では埋まらない溝も、質問、相談、意見交換を繰り返し、日本放送協会側で回答を検討し、次回はその回答から対話が始まれば、両者のコミュニケーションが深まり、最終的に契約に至る可能性もあると思います。しかしながら、現在の訪問員システムは継続的な対話を行う仕組みになっていない為、毎回毎回「なぜ契約しないのですか?理由を教えて下さい」という状態にリセットされます。

理由をお伝えしても、数か月後にはまた「理由を教えてください」と訪問員が来ますので、何のために理由をお伝えしているのか分かりません。これでは過去の訪問員の活動は全く無駄であり、そこに費やされた経費は何の価値も生み出していない事になります。

なぜ次の対話時に何の進展もないのか尋ねたところ日本放送協会には私からの質問と要望が伝わっていないどころか「そもそも伝え、引継ぎ、継続的な対話をする手段は用意されていない」という事実が分かりました。その結果、数か月おきにエリア担当者が変わり、また訪問された際には全く同じ説明と対話が始まります。彼らの活動は「理由を聞く」のみであり「その理由に対して回答する事も検討する事も何もしない」と言うのです。御団体側から対話を求められながら、その質問に答え、意見し、要望を挙げた内容が一切記録も検討もされずに破棄されているとするなら、こんなにも失礼なことがあるでしょうか。

このような壮大な無駄に付き合う時間が勿体ないというのはもちろんですが、この無駄な活動経費に受信料が浪費されているという現実には強い憤りを感じずにはいられません。

しかしながら、そもそも先に述べてきた訪問契約制度の廃止を行えば、それに紐づく些細な問題は全て解消されますので、改めまして訪問契約制度の廃止のご検討を頂くのが最適であると考えます。

 

【まとめ】 

  • 受信設備保有者という条件において一律的に受信料を請求される事について納得できませんので是正を検討頂けませんでしょうか。
  • 現在の契約では、御団体が受信料を一方的に値上げできる、また一方的に受信料徴収対象を追加できる強権的契約内容となっておりますので是正を検討下さい。
  • 受信設備を取得(保持)する事が実質的に日本放送協会との契約を同意したと解釈されるのであれば設備取得時に契約手続きが履行されるべきですから、その方法論を検討下さい。
  • 受信契約の訪問方式とその運用コストが無駄ですので制度の廃止を検討願えませんでしょうか。

 

日本放送協会Webサイトのよくある質問集には「ご契約やお支払いいただけない方に対しても、公共放送の意義や受信料制度について誠心誠意丁寧にご説明し、ご理解いただけるように努めております。」との記載がございます。誠心誠意丁寧なご説明というのは、いつ、誰が、どのような方法で行われているのでしょうか。少なくとも私の提言に関して私の理解が間違っているのであればその訂正を頂かなければ納得のしようがありません。ちなみに私は訪問員の方との対話を拒否した事は一度たりともございませんし、訪問員の方がお越しになる度に「なぜ契約しないのか」「何が問題なのか」を我慢強く繰り返し繰り返し伝えてきました。ですが、一度たりとも私の疑問や意見に答えて頂ける方はいらっしゃいませんでした。先日お越しになった方には「この会話の続きが出来ないのであれば進展のしようがないのでもう来て頂かなくて結構です。進展があった時にお越しください」と伝えましたが、それすら次の担当の方には引き継がれず新しい方がやってこられた時にはさすがに脱力してしまいました。「理解して頂けるよう努めているのはむしろ私だけだった」という事です。想像を絶するほどの無駄な経費ですし、御団体は全く誠心誠意説明する気がないという事だけが理解出来ました。

もし御団体にて継続的な改善検討が行われ、その為の情報開示も行って頂けるのであれば、私が受信設備を保有・設置している場合にはその未来に期待し契約と受信料の支払いを行う事も吝かではありません。

是非、日本と日本国民の為にも誠実な仕組みへの改善、発展を検討頂きたく、その為のご支援を受信料という形でさせて頂きたいと考えております。次回対話時には、本内容を踏まえそれぞれの問題提起に対する見解と今後の展望をお聞かせ頂くところから始めさせて頂けますでしょうか。

取り急ぎは、訪問員の方によるご説明と継続的な対話で結構ですので「疑問・質問に答えて頂く」という当たり前の対応が出来る団体へと一歩前進されることを希望いたします。

尚、現時点に於いて私が放送設備を保有・設置しているか否かについては明言致しません。これは御団体がまず誠実にご対応され、真摯な対話が可能になった際に検討すべき事と考えております。

血液型診断という「浅はかな推論」

およそ妄想的な仮説には「突然の思いつき」的なものもあるが一方で「浅はかな推論」からも生まれる。

例えば、文明と人種についてこんな仮説を唱えてみよう。
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21世紀の現代世界を見渡してみると欧米のように白人中心の国家が最も先進の科学技術や理論を扱い、生活レベルも豊かであるのに対し、アフリカなど黒人中心の国家においては最新の技術は生活に根付いておらず、生活レベルも低い。

これは1国の例だけではなく、世界の多くの国を見渡しても同様の傾向がみられる。すなわち、白人は発達した叡智を持ち、それを活用することができるが、黒人はそのような能力を持たないと言えるのではないか。

端的に言えば、白人は賢く、黒人はバカだということである。
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さて、私はこれを「浅はかな推論」と呼ぶ。

この「浅はかな推論」の面倒なところは、単なる「空想」だけで出来ているのではなく
「客観的な観測と傾向分析に基づいた仮説だ」と思いこまれてしまう事があることだ。

日本人の多くは「白人が優秀で黒人が劣等である」という評価に対して否定的であろうと思う。そして、明確な根拠のないこのような差別は断じて行われるべきではないと考えるだろう。

「なぜ一部の白人は"肌の色が黒い"というだけで黒人を劣等扱いするのか。こんな不当な差別はないし、逆にそうした差別をしている人間の愚かさは見るに堪えない。」

こう感じる日本人も多いかもしれない。

※そもそも「黒人」との呼称が差別的意味を含むか否かという語源議論はここでは置く。

だが、一方で私はこの「浅はかな推論」を日本文化の中にも見つけることができる。それは「血液型診断」である。

血液型診断は知っていても「そもそも血液型とは何か」を知らない人も多かろうと考えられるのでまずはそこから紹介してみたい。


●血液型とは何か
そもそも血液型とは、血球の持つ抗原による分類であり、赤血球・血小板・白血球・血漿などに数百種類が見つかっている。その組み合せパターンは1つの種類だけでも数万通りあるものもあり、全ての種類を掛け合わせると天文学的な数になる。

そこでまず血液型に関する情報をいくつか整理してみたいと思う。

まず一つ目。血液型の分類は数百種類も存在し、ABO式はその中の1つの分類方法に過ぎない事。皆さんが「血液型何?」と聞くのは大体ABO式の事である。赤血球の免疫反応に影響する抗原の種類で分類される方法のことだが、他にも分類方法はたくさんある。

赤血球型  ABO、MN、P、Rh、Lewis、Lutheran、Kell、Ss、Duffy、Kidd、 Diego、I、Xg、Sid.Cad、ABOの亜型
白血球型  HLA-A、B、C、D、DR、DP、DQ、顆粒球抗原 など
血小板型  Duzo、PlA1、PlA2、Koa、Kob、 PlE1、PlE2、Leka、Baka、 Yuka、Yukbなど
血清型  Al、Hp、Tf、Gm、Km、Am、Gc、Ag、Lp、Cp、Pi、Xm など

一般的に自分の血液型として知っているのは赤血球型の一番初めに書いたABO式(主にA型、B型、O型、AB型の4種)に加えて、Rh式程度だろう。例えば私はRh+のA型であるがそれ以外の血液型分類で自分が何に当てはまるのかは知らない。

ではなぜ、この2つの分類方式だけ一般個人に認識されている事が多いのか?

実は、ABO式やRh式は、その抗原の特徴から組み合わせによって自然抗体ができ凝結してしまったりする為、輸血などの時に注意が必要なのである。よって、医学構造的に知っておくほうが便利で、知る機会が多いのが「ABO式」と「Rh式」という訳だ。

ちなみに他の分類の、例えばHLA型であっても、適した型でなければ、他人の体に入れる訳にはいかない。だが、HLAを他人に移さなければいけないのは骨髄移植などの時だけなので、必要になってから調べれば十分という理由から日常的に知られていないだけである。

結論:血液型はABO式以外にも数百種類あり、これらの組み合わせは天文学的数字であり、全てが一致する人間などほぼいない。例えばABO式だと同じB型だが、その他の血液型の種類では全く異なる人もいれば、ABO式だと血液型が異なるが、他の血液型では結構同じものだった。という人もいるかもしれない。

そして、一般的な人にABO式だけが広く認知されているのは、医学的に有用だからに過ぎない。


次に二つ目。
そもそもABO式自体について、A、B、O、ABの4種類しかないと思われているが、実はそうではない。その4種類が多いだけで、それ以外の型の人間もいる。

<ABO方式の血液型>
A型、B型、O型、AB型、Bombay(Oh)型 、para-Bombey型 、-D-型 、Ko型 、p型
Jr(a-)型 、fy(a-)型 、Dy(b-)型 、Rh null型

これらは人数が少ない為、稀血と呼ばれたりするが「血液型何型?」と聞いて「p型」という返事がある事もあり得るという事だ。

結論:ABO式ですら、4パターンには収まらない。


三つ目。
ABO式の血液型は骨髄移植などで変わるということ。

骨髄とは、硬い骨の内側にあるゼリー状の組織で、血液をつくるのがその役割である。
骨髄の主な成分である骨髄液には、造血幹細胞があり、これが分裂増殖していくときに、赤血球、白血球、血小板に分化していく。この分化がうまくいかずに白血球が増え続けるのが「白血病」。赤血球、白血球、血小板ともに減少するのが「再生不良性貧血」と呼ばれ、これらを治すために骨髄移植という手術が行われる。正常な人の骨髄から、骨髄液と造血幹細胞を取り出して、患者に移植する方法のことである。

骨髄移植で重視されるのは先ほども述べたHLA(ヒト白血球抗原)と呼ばれる組織適合抗原で、このHLAの型が同じでないと、強い拒絶反応が起こるため骨髄移植はできない。そしてこのHLAの型の種類は非常に多く、適合するドナー(骨髄提供登録者)を見つけることは大変困難である。

しかし、HLAが適合しさえすれば、ABO型を決める赤血球の血液型が適合する必要はない。そのため、骨髄移植でA型の人の骨髄をO型の人に移植したところ、徐々にO型であった血液型がA型に変化するという現象が起こる。

他にも、細菌によって血液型が変わったり、肝臓移植によって血液型が変わる等という例がある。血液型は特に何もなければ変わるきっかけがない為、一生変わらないケースが多いというだけである。

結論:血液型は途中で変わる事がある。

四つ目。
ABO型に分類される血液型成分は、脳にはほとんどまわっていないという事。
(血液中の8%のみ)

例えば、セロトニンが脳内に不足するとイライラするという事がわかっている。思考や感情は脳によって作り出されるものであり、セロトニンはその中枢神経に存在する神経伝達物質である。故に、その脳内において活動する物質が、思考や感情に影響を与えるということである。

一方、ABO式の血液型の場合、脳に対する影響はひどく小さい上にそもそも神経伝達物質でもない為、脳の活動に影響を及ぼす可能性はほぼないと考えられる。

結論:ABO式の血液成分はほとんど脳には行かない。またそもそも、赤血球の抗原自体が神経伝達物質ではない為、精神や感情に影響を与える性質のものではない。


<結論整理>
1:血液型はABO式以外にも数百種類あり、完全に血液型が一致する人間などほぼいない。またその中でABO式が広く認知されているのは、医学的に有用だからに過ぎない。
2:ABO式ですら、4パターンには収まらない。
3:血液型は途中で変わる事がある。
4:ABO式の血液成分はほとんど脳には行かない。またそもそも、赤血球の抗原自体が神経伝達物質ではない為、精神や感情に影響を与える性質のものではない。

この4点の特徴からだけでも、ABO式の血液型分類は体の構成要素の分類法ではあるが
人間の精神的な部分に影響を及ぼす可能性は、まずあり得ないと考えるのが自然である。あるいは、もし血液型が精神的な部分に影響を与えるとすれば、ABO式以外の血液型の合致性による影響も考えねばならずABO式だけが精神的な部分に影響を与えていると考えるのは非常に浅はかである。

故に、実際の科学分野でも「ABO式血液型が人間の気質・性格に影響を与える」との仮説は立てられず生命科学分野では検証も研究も行われていないのが実状だ。

血液型診断を信じる者は「なぜちゃんと研究されないのか!」と批判的になるかもしれないが通常、根拠のない仮説が立てられる事はない。

例えば

・髪の毛の太さが0.1mm以上の人は淋しがり屋だ。とか
・瞳(黒目)の大きさが白目の80%未満の人は運動が苦手だ。とか

そういった主張を行う場合、その根拠となる何らかの「気づき」や「推論」がなければ、それは「仮説」ではなくただの「空想」でしかない。

もちろん、体を構成する要素の違いなのだから、精神的に何らかの影響を与えないと言い切る事は難しい。だが、それを言えば全く同じ体の人間などいないのだから、無限に検証すべき項目があるという事になる。

例えば、体の反応という意味で言うなら

・同じ花粉症でもスギに反応する人は「神経質」だが、ブタクサに反応する人は「いい加減」である。
・卵アレルギーの人は「優柔不断」だが、ソバアレルギーの人は「決断力が高い」

などそのような分類調査が行われても不思議ではない。
いや、むしろ日常生活に直接影響のあるアレルギー要素なのだから、血液型なんかよりも精神的な影響は強いと考えられて然るべきである。

例えば、私が論拠を勝手に想像するなら「卵は様々に形を変えて多様な料理に使われる為、卵アレルギー患者はアレルギーが出ないように料理内容を慎重に比較検討するようなクセが付き、結果、何についても即決できない性格になる。」といった性格への影響がありうるという事だ。

だが、しかし客観的な感覚からすればスギに反応する人と、ブタクサに反応する人で、性格が違う。などという発想は、非常に妄想的であり、何かのきっかけからそう思い込んでいるだけだと捉えられるだろう。まして、ABO式血液型など言われない限り周りから知り得ないレベルのごく微小な体内構成の違いが目に見えて性格に影響を与えるなどという暴論は、よほど騙されやすい人間でなければ信じようがない。

もちろんこれはABO式性格診断に対する科学的な否定ではない。よって、これをもって「気質や性格はわからない」と否定する事自体はできない。

まずは「血液型」という存在そのものから見て、気質や性格に影響を与える可能性は低く、それ故に科学的な分野で「仮説化」される事も少ない。という事実を知って頂きたいのである。

さて、では、にも関わらず、なぜ血液型診断は信じられているのか?

恐らく先述のような「血液型の構造の話」だけを聞いて「信じる」人はいない。根拠が示されていないからだ。

むしろ「構造なんて知らない。そんな科学的な部分には興味はない」「だけど信じる要素が別にある」この2点が成り立った時に、血液型診断は盲目的に信じられる事になる。

では、次のステップへ移る。


●心理学的理由
さて、血液型診断を信じている人の多くは「構造の違いとかはわからない。でも、当たってると思うんだよ。経験上そう感じる」と言うだろう。そう感じるのは、ほとんどが心理学的な錯覚だと考えられる。

いくつかその心理的効果の例を紹介してみよう。

フリーサイズ効果
誰にでも当てはまる事を定義づけ、当たっているように思わせる事。例えば「おとめ座の人は、一人でいると淋しい気持ちになりやすい」と規定する。恐らくこの現象は星座に関わらず、ほぼ全ての人に当てはまる。だが、あえて「おとめ座」と指定することで「おとめ座」の人は「そういえば、私はそうだ!」と特異的な特徴だと感じてしまうのである。

②ラベリング効果
同じく誰にでも存在しうる性格の特徴を、A、B、O、ABに当てはめ(ラベリングし)、固有の特徴だと思い込ませる方法。例えば「B型は自分勝手だ」という特徴を信じた者は、次から「B型」の人間と接した時にそのラベルに引きずられて、その人を判断するようになってしまう。他の人でも起こりうるレベルの「自分勝手な振る舞い」であっても「ああ、やっぱりB型だからこういう行動をとるんだな」と決めつけて見るようになるという訳だ。単純な暗示作用である。

③インプリティング効果
一度、特徴的なことで「当たっている」と感じてしまうと、そのせいで自分はそういう性格なのだと刷り込まれてしまう事。「やっぱり私はおとめ座だから淋しがり屋なんだ」と事あるごとに感じてしまうようになる。

この手法は、広告などのマーケティングでもよく使われる方法である。例えばマクドナルドのCMを何度も聞いていると、街中でそのイントロを聞いただけで食べたくなったりする。

このように「フリーサイズ効果」に過ぎないものであっても「ラべリング」によって定義づけられてしまうとその後「インプリンティング」され続けて「正しいような気がする」という現在の日本の血液型信仰が作り上げられていくという訳だ。

例えばこんな感じである。
K子「あなたA型でしょ?」
M子「いや、O型だけど」
K子「えー!そうなの?あーでも、なんとなくわかる」

ありがちな会話だが、K子さんの心理がまさにこの錯覚である。K子さんは最初「M子さんにはA型っぽい特徴がある」と思い込んで「A型でしょ?」と聞いた。ところが実際はO型だった事がわかり、今度は「O型っぽい特徴がないか」を無意識に探し始めその特徴を見つけて「なんとなくわかる」と肯定的に当てはめる。K子さんは仮にM子さんが「B型だよ」と言っても、恐らく同じような反応をしただろう。

勿論例外もある。「どう見てもA型には見えないなぁ」という会話も聞く事があるが、これも「A型」のラべリングを信じているから出てくる感想であって、既にインプリンティングされてしまっている。という事でもある。

「血液型診断は嘘だ」という立場から見れば、A型に見えなくたって何の問題もないし、むしろ当たり前の事である。だが「血液型診断は本当だ」という立場から見ると「A型なのに、A型っぽくないなぁ」と不思議な気持ちになるのだろう。

よほど偏った人間でなければ、人は細かい部分や大雑把な部分の両方を持ち合わせているし協調的な部分や自己主張出来ない面もあれば、妙に我儘だったり自分勝手な部分もある。その程度の流動性はフリーサイズの範囲内に収まってしまう。あとは、ラベル(その人が自分の血液型を何と言うか)を与えられれば、その傾向を結び付けて考えるようになるという事だ。

更には、ずばり思っていた通りの血液型だった時に感じる「やっぱり!」という気持ちの方が強く記憶に残る事で「血液型診断の正統性」そのものがインプリンティングされていくケースもあるだろう。

また、稀にひどく自己主張が強いなど際立った特徴を持つ人間もいるだろう。だがそれは血液型のせいではなく、生まれや育ちや遺伝子による影響と見る方が良い。ABO式血液型のせいであれば、そのように際立った特徴の人間もまた結構な割合で存在しないといけないからだ。100人に1人しかいないレベルの個性を持っているのが血液型のせいなら、その人の血液型も100人に1人しかいない血液型でないとおかしい。一般的なA、B、O、ABの4種のいずれかであればそのような際立った個性には結びつかないはずである。

だが、ではそのラべリングに説得力を感じてしまうのは何故だろうか?それは単に「確かにそう感じる!」という先述した心理印象が最大の要因だと考えられるが、これを強固にするものとして冒頭で述べた「浅はかな推論」が加わるのである。


●浅はかな推論
例えば、ヨーロッパのある村の住民を集めてアンケートを取ってみる。その村は屈強で毛深い男たちが多く、大酒飲みが多かった。一方、その妻達は毛も薄く、ほどほどにしか酒も嗜まない。この結果を見て「毛深い人間は、酒に強い」という「浅はかな推論」が成り立つ。

だが実際に「酒が強いかどうか」は「アルコールを分解する酵素を持っているかどうか」という体質的違いであって、当たり前だが、毛深い人間にも酒が弱い者はいるし、毛の薄い人間にも酒が強い者はいる。

だが、事実を適切に捉えられない者から見ると「毛深い人間のほとんどが酒に強い」という環境の中で、たまたま「毛深いクセに酒が飲めない者」を見つけたとしても、これはイレギュラー(統計上のエラー値)だと切り捨ててしまうだろう。よって、このアンケート結果を正しい(=毛深い人間は酒に強い)との判断に至る事になる。

これらは「分類をしている」ように見えて、実際は浅はかな推論による差別を行っているに過ぎない。血液型の話に戻すなら「毛深いのにお酒弱いんだね」と言う事と「O型のクセに神経質なんだね」と言う事は全く同じレベルの浅はかさであり差別要因の温床にしかならない。

この問題に気づかない人たちは血液型の話で出てくる「芸能人には△型が多い」「政治家には●型が多い」「スポーツ選手には■型が多い」という浅はかで幼稚な分析に「なるほど」と納得してしまっているのではないだろうか。

例えば「プロ野球界の通算打率ベスト60を見る何とB型の選手が多いのです!」と聞いて「なるほど!血液型って不思議だなぁ」と感じてしまうなら、あなたはもう騙されている。

このような分析を行う者の思考と手順を考えてみよう。まず、彼らはプロ野球選手の血液型のデータからグルーピングを行ってみる。投手、野手、一軍、二軍、セリーグパリーグ、球団別、ホームラン数、打率、打点、防御率、勝利数、与四死球数、出身校、出身地、年齢など様々なグルーピングを行ってそれぞれ検証して、血液型の特徴が出るかどうか調べるのである。なかなか見つからない場合は、更に過去に遡って通算打率トップ30を見てみる。それでも有意差がなければトップ100で見てみる。あるいはトップ10に絞ってみる。などあらゆるカットで見てみて、その結果例えば「通算打撃成績ベスト60を見る何とB型の選手が多いのです!」という事を発見するのである。

さて、こうした末に発見された事を知ると改めて「プロ野球界の通算打率ベスト60を見る何とB型の選手が多いのです!」と言われても、今度は「なるほど!血液型って不思議だなぁ」とは感じなくなるだろう。

こうした破綻した統計学はシンプルな例で言えば「野球選手には短い髪の人が多く、サッカー選手には長い髪の人が多い。つまり短髪が好きな人は野球が上手くて、長髪が好きな人はサッカーが上手いんだ」と言っているようなものに近い。

たまたま見つけた共通項目に全て因果関係があると思い込む事は非常に危険である。無意識的にそういった「浅はかな」論理の組み立てをしていることがないか日常でも気をつけるべきだろう。

冒頭で端的な浅はかな推論の例として「黒人差別」を挙げたが、要するに浅はかな推論とは、さも論理的であるかのように組み立てながら単に都合のよい合致部分だけを抜き出して立証したと勘違いしている方法なのである。

むしろ外国人からすれば「黒人」のような、見た目で大きく判別できる事から差別が生まれる事は想像できても、まさか見た目では誰もわからない、身体の構造の、しかも、脳や意識とは何の関係もない、赤血球の抗原体の一部を見て差別が生まれているなど想像もできないだろう。「日本人は、そんな奇妙なところから人間の性格に違いが出ると思っているのか?」と呆れるに違いない。

ここまで読んで頂ければ推測できると思うが、少なくとも呆れられない為の検証を行うとするならば、他要因の排除検証も必要であるということだ。例えば、ABO式の血液型で分類し、何らかの実験結果が出たとするならば、それがその他の要因によるものではない。ということも同時に検証すべきだろう。

例えば、一見A型とB型で何らかの違いを見つけたとしても、実は「長男」にもよく現れる気質だった。実は「都会にしか住んだことのない人間」に現れやすい気質だった。というように、多様なプロファイルでの検証を行いながら整理しなければ、先の「毛深いから酒に強い」という誤った結論に導かれてしまうのである。

もちろん、こうしたプロファイルは切り口を変えれば無限に存在しその全てを検証することなどできない。そこで、一定の仮説「要因として考えられる事」を科学的・論理的に判断し、その土俵に上った仮説を検証対象とする事になる。

先ほどの酒飲みの例で挙げるならば
・毛深いか薄毛か
・男か女か
・若年か老年か
・兄弟がいるか一人っ子か
・体内の分解酵素の有無
・・・・
などなど様々な区分けを行った上で、その中の「毛深いかどうか」だけに焦点が当てられ結果的に「毛深い人間は酒が強い」と判断されることは、科学的に正しい検証方法とは言えない。調べるのは「毛深いかどうか」だけで良かったのだろうか?また、サンプルが「ある村の数十人だけ」であった場合に、それが真理を語るのに十分なサンプル数と言えただろうか?と検証方法を振り返らなければいけない。

この例では、一見、毛深い人に酒飲みが多い印象を持ったことから盲目的にそれだけを見て判断しようとした事に誤りがあった訳だ。

なぜそのような浅はかな結論に至ってしまうか。本来何かの事実を証明するには2つの筋道がある。

1.科学的に何かが発見される→これが事実かを実例で検証する→合致したことで事実だと認められる。
2.何か実例で傾向が表れる→これが事実かを科学的に検証する→合致したことで事実だと認められる。

浅はかな推論においては「何か実例で傾向が表れる」→「以上。それが結論」となっているのである。その先に事実かどうかを明らかにする検証はない。(ここでいう検証とは、単に何度か統計を取ってみる。という事ではない。その統計が事実化どうかを別の方面から検証する事である)

例えば高学歴の人を集めて共通項を探す。

・あれ、みんなまつ毛が長いな。
・大半の人の顔にホクロがあるじゃないか。
・背の低い人が多いな。

共通項を探すだけでは、何の因果関係を見つけた事にもならない。
だからそれらが「高学歴」である事の理由になるはずもない。

だから、それに気づかなければ誤った3段論法に騙される事になる。

①日本人は勤勉である
②日本人の髪の毛は黒い
③よって、黒い髪の毛の人間は勤勉である。
というような浅はかな論法だ。

ここまでで振り返ると冒頭の「白人の国々が黒人の国々より科学文明的なのは、白人は知的で黒人は馬鹿だからだ」との論理が「浅はかな推論」だという事を理解頂けると思う。この例は、その他の要因(つまりは文明の成り立ちや、自然環境、様々な歴史的要因)を無視して「人種」と「文明」という二つの共通項だけを無理やり結び付け、浅はかな推論によって結論づけた結果なのである。

皆さんが「血液型診断」を信じる根拠が「心理的効果」と「浅はかな推論による、誤った統計の捉え方」によって作られていないかどうかよく考えてみて欲しい。

誤った3段論法と血液型を絡めるとこんな感じだろうか。
①アメリカ人はハンバーガーが好きだ
②アメリカ人にはO型が多い
③つまり、O型の人間はハンバーガーが好きだ

あなたは「いくらなんでもバカバカしい」と思うだろうか?
それとも「おお!確かにそうかも!」と思ってしまうだろうか?

この項の最後として「パンは危険な食べ物」というものという有名なアメリカのジョークを紹介しよう。

パンが危険な食べ物である理由
・犯罪者の98%はパンを食べている。
・パンを日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
・暴力的犯罪の90%は、パンを食べてから24時間以内に起きている。
・パンは中毒症状を引き起こす。被験者に最初はパンと水を与え、後に水だけを与える実験をすると2日もしないうちにパンを異常にほしがる。
・新生児にパンを与えると、のどをつまらせて苦しがる。
・18世紀、どの家も各自でパンを焼いていた頃、平均寿命は50歳だった。
・パンを食べるアメリカ人のほとんどは、重大な科学的事実と無意味な統計の区別がつかない。


●血液型診断の問題点

さて、もしここまでで「確かに血液型診断の信憑性っていうのはいい加減なものかもしれないなぁ」と思い始めて頂けた方もいると思うが、加えて問題なのは「でも遊びでやってるだけだから」と事態の重さに気づいていない者がいる事だ。

多くの日本人が好み、話題にすることで、テレビや雑誌は更に取り上げて煽る。この繰り返しが「血液型診断」が世の中に大きく座する要因となっている。まさに日本人全体が「フリーサイズ」な特徴を「浅はかな推論」と組み合わせて「ラベリング」し、人々に「インプリンティング」している訳だ。

繰り返しになるが、私から見れば「B型の血を持つ者は自己中心的だ」と発言することは「ユダヤの血を持つ者は野蛮だ」「黒人は頭が悪い」と発言していることと全くイコールである。

一人一人が「こんな差別に結びつくオカルトなんかで遊ぶべきではない」と気づきさえすれば「血液型診断」によって、悩んだり、いじめられたり、差別を受ける者はいなくなる。

「遊びなんだから、そんなに目くじら立てる事ないじゃないか」と言う方もいるが、他人を傷つける遊びは遊びなどではないし、冗談でもするべきではない。

それによって悩んだり、傷ついた人がいるという事実を無視してはいけない。血液型診断を信じている採用担当者によって、採用か不採用が決まったり配属の際に優遇・冷遇される根拠になっているケースがある事を知るべきだ。そうした思いこみが後押しとなって、人間関係に一線を引かれたり、フラれたりする事がある事を知るべきだ。大人が与えた血液型信仰によって、小さな子供が差別やいじめに遭う可能性がある事を無視してはいけない。血液型によって、辛い思いをした。という人たちの声はインターネットで幾らでも見つける事ができる。

・このパワーストーンを持っているだけでお金持ちになれるんです。
・このつぼを買えば病気になりません。
・ユダヤ人は劣等民族です。
・A型の人は神経質なんです。

これらは全て等しく根拠も証明もない暴論である。共通項を探し出してこれが証明だと言い張ったり、いい加減な統計結果で傾向が現れたと言い張っているだけである。そればかりか、むしろ血液型は公式な調査・検証の上で事実性が見当たらないと何度も言われている。

しかもパワーストーンのように自分で信じて自分で満足する自己完結型、且つポジティブな効果のものを選別する方式と違って「血液型診断」は他人を傷つけたり、悩ませたりする分性質が悪い。要するに「黒人差別する事」と同じ、不当な差別表現なのである。

また開き直って「血液型診断は好きだけど、私は別に人を傷つけるような言い方をしたことはない」と言う者もいるかもしれない。

だが、そういう貴方を含め、この診断が好きな人間が多いから、雑誌やテレビでも人気を博し関連ビジネスが儲かり、ますますスパイラル的に世の中に浸透していくという事に気付くべきだ。その結果、歪んだ信仰、異常に信じすぎる者たちを作り出し、結果的に不当なレッテル付けが生まれる。

こうした大衆の思い込みが、知らず知らずのうちに蔓延し、あちこちで差別として人を傷つける事になる事実を知って欲しいし、貴方が血液型診断を肯定する事が、こうした事態を助長している事になるのだと気づく必要がある。

誰かが「ユダヤ人は血が汚い」と言えばそれを信じ、誰かが「あいつは魔女だ」と言えばそれを信じ、誰かが「B型は自己中心的だ」と言えばそれを信じる。「なぜ、そうなのか?」を考えることもせず、安易に、幼稚に、単純に信じる。

大勢の人が言っている、マスコミが言っている。「言われてみれば確かにそうだ!」そんな都合のよい思い込みを真実だと錯覚していく。

こうした盲目性が世の中に差別を生んできた背景だという事を知るべきだ。人種差別然り、部落差別然り、男女差別然り。血液型診断を信じて疑わない人間は、魔女狩りの時代に生まれていたら率先して「あの女は魔女だ」と思い込んでいる事だろう。

貴方が直接差別的発言をしなくても、その分類を肯定する事、信じることが既に差別をしてる事と一緒だという事に気づかなければならない。そして、それは「罪なことだ」という事を知らねばならない。

稀に、私が血液型判断を批判すると「あなたB型でしょ」と言われる事がある。B型の人間は、血液型で不当な扱いを受ける事が多いので血液型診断を嫌う人はB型に違いない。と感じるようだ。逆に言うと、そういう感覚があるのであれば、B型で傷ついている人がいる事をわかっている訳だからすぐにでも血液型診断で遊ぶのをやめるべきだと思う。

ちなみに私は先にも記載したがA型であり、別に血液型診断で不当な扱いを受けた訳ではないが間違った論理を振りかざして、どこかで誰かを傷つけている事に気づかない人間が不愉快なのである。

こう言うと「やっぱりA型か。A型だから理屈っぽく血液型診断の批判を語ってるんだね」なんて言われるかもしれない。結局、何型だって血液型診断を信じる人からは「全て血液型のせい」であり、ほとんどのA型の人間は私のような事を語っていない事を蔑ろにして当てはめようとするかもしれない。

私は黒人ではないが、黒人が差別される事を良しとしないし、同じく、私はB型ではないが、B型が差別される事を良しとしない。当たり前の事である。

だから「あなたはB型だからそんなことを言っているんだろう」なんて言われると本当に不愉快だ。この発言によって、本当にB型の人はもっともっと悔しい思いをしている事だろう。そういう嫌な思いをしている人がいることを、なぜわかってあげようとしないのか。日本人の血液型診断好きには本当に心が痛む。

もし悪気なく言ったとしても、それによっていじめられたり、勝手に人格を固定化して見られたり、仕事を与えられなかったりそういう経験をした事がある人間は、都度辛い気持ちになっているはずである。不用意に「あなた何型?」「B型?」「あーわかる」などという会話が、そうした心の傷や不当な差別による悔しさを掘り返しているんだという事を自覚して欲しい。

もし表面的には笑顔を装っていても、心の中で辛い気持ちになった人がいるかもしれないと想像して欲しい。

あなたが直接会話をした相手だけでなく、横でその会話を漏れ聞いて嫌な思いをした人がいるかもしれないと想像して欲しい。

あなたの血液型に対する発言は「黒人って知能弱いよね」と黒人が近くにいる場所で発言した事と同じだ。と気づいて欲しい。

「あなたに差別の気持ちがあるかどうか」が問題なのではない。

「事実無根の人格の決めつけ」が既に差別的行為なのだ。と早く気づいて欲しい。


●最後に・・・
海外で採用基準に「星座」を取り入れている企業があるそうだ。何でも「おひつじ座、おうし座、みずがめ座、やぎ座、しし座の生れの人」以外は採用してもらえないらしい。

この企業曰く「統計調査によれば、わが社の優れた最高の職員は全員この5つの星座の一つに当てはまると出ています。我々はこの傾向にそって社員を選んでいるに過ぎません。」

皆さんはこの企業をどう思われるだろうか?

私はこの企業の考え方に徹底して反対したい。私はしし座なので入社する権利があるが、もちろんこんな会社に入りたいとは思わない。「自分は入社しないからいい」ではなく、こうした理不尽を許容する社会があるということを問題視すべきである。

但し、これはこの企業が勝手にやっているだけなので、今のところこの企業外に余波はない。実は、血液型診断を信じて広く一般社会に広めている日本人の方が、この企業より余程悪質だ。そういう事実認識を日本人には持ってもらいたいと思う。

「この世に絶対はない」という神話

色々な人と接していると、かたくなに「この世に絶対はないんですよ!」って言って憚らない人に出会う事があります。

これ、あれですね。 ちょこちょこ「そう言う人」に出会うという事は、かなり多くの人が「この世に絶対はない」っていう何か神話めいた理論を信じてる気がしますね。

そのあたりの主張って表現的にカッコいいからそう言ってるのか、ホントにそう思ってるのかわからんかったりします。

確かに「この世に絶対はない」って言う主張はカッコいい気がします。

「サッカーの試合に絶対はないんだ!!」
「絶対安全なセキュリティなんてないぞ!」
「『絶対儲かります』なんてありえない」
「『俺たちの恋愛は絶対大丈夫』って思ってた」
「絶対解決しない課題なんてないんだよ」

何か多分、そうした「絶対大丈夫だ」みたいに言う人に対して諭すように「あのなぁ、絶対なんてないんだよ」って言いたいんだと思う訳です。

そんで、確かに安易に「絶対」という言葉を使うのは危険で、思わぬ事態や、思わぬ奇跡が起こって「絶対」は打ち破られたりする訳です。

だから「絶対」という言葉を肯定するのは短絡的で「絶対はないんだ」と考えることが思慮深いように感じるんでしょうね。

なるほど、そう考えると「この世に絶対はない」っていう言葉はカッコ良い気がします。

平家物語でも諸行無常、盛者必衰として、この世は移り変わっていくものとして描かれ、 物理学や自然科学の世界でも絶対と思われていた理論が次々と打ち破られていきます。

どうやら本当にこの世には「絶対」なんてないんじゃないか。そんな気持ちにみんな同調しちゃう。

作家先生やアーティストやアスリートや色んな人が「絶対なんてないんです」って言葉をカッコ良く使う。確かにその世界では、最後まであきらめずに「絶対」なんて言葉で自分を制約しちゃダメだみたいな考え方は正しかったりします。

そしていつしか人々は 「この世に絶対はない」という定理が「絶対」正しいと思い込むようになった訳です。

なるほどなぁって思いましたよ。

でも、間違ってるんです。

「絶対はない」という言葉は、限定的な世界でしか通用しません。なんでみんな、そうした幾つかの事例を見ただけで「この世に絶対はない」みたいに「この世の全て」に適用枠を広げようとしちゃうんだろ。めちゃくちゃ飛躍だよね。

 

例えば、私はどんなに怒りが爆発しても髪の毛が金色に逆立ってオーラをまとい星を破壊できるほどのエネルギー弾を撃てるようにはなりません。「絶対に」です。

 

ほら「絶対できない事」はありますよね?

 

これすら「いや、この宇宙ではどんなに荒唐無稽な事が起こるか分からない、今日までそれが起こらなかったとしても明日起こるかもしれない」と嘯きますか?そこまで言い切るのであれば確かに「絶対」はないでしょう。隣に住んでいる人は実は身長が100mあるかもしれませんし、明日からあなたは5人に増えているかもしれません。確かにこの宇宙で起こる事の全てを人類が理解出来ている訳ではありませんからね。何が起こるかは確かに分からない。私も突然惑星を破壊するくらいの力を手にするかもしれません。

 

でも、限りなく可能性がゼロに近いものですら「全てに絶対はないんだから、それだって起こるかもしれない」と主張する事になんの意味があるでしょうか?

 

私は、一般生活の中で「それは絶対に起こる事はない」という言葉を使っても良いと考えています。「絶対に起こらない事はある」という当たり前の共通認識をまず持ちたいと思っています。

 

「サッカーの試合に絶対はないんだ!」確かにそう言いたくなる気持ちはわかります。でも残り時間5秒で30点差で負けていたとしたら、私は「絶対に逆転は不可能」と言って差し支えないと考えています。この差を逆転させるには「1秒で6点を取るという」物理の壁を越えた現象が必要だからです。

 

もちろんとんでもない出来事があって試合が無効になったり、相手チームが反則負けになったりする事はあるかもしれません。だから「うちの負けが決まったわけじゃない」は正解ですが「残り5秒で30点だって取れる!だってこの世に絶対はないんだから」という主張はすべきではないと思うのです。

この世を限定的に捉えちゃダメだ、柔軟に捉えなければという気持ちが強くなりすぎて「絶対はない」という論理をいついかなる時も「絶対化」しちゃダメなんですよ。

「この世に絶対はないんです!!」と幼稚に主張する人には、即座に「いや、絶対なんて幾らでもあるよ」と答える事にしています。「絶対はない」と主張する方が思慮深いなんてとんでもない話で「絶対」の「絶対性」に拘って限定的な思考になっちゃってるのがむしろ滑稽です。

 

「絶対がない」なんて事を「絶対に言える」とは限らない。というくらいの気持ちの余裕をもって欲しいものです。

 

え、そんなの当たり前じゃないかって?

 

いやいやいるんですよたまに。「この世に絶対は幾らでもあるよ」って言っても「そんな事はない。この世に絶対はないんです!!」と言い張って憚らない人が。

鶏と卵はどちらが先か

よく喩えとして使われる「鶏と卵はどちらが先か」という問題提起ですが、私は明確に「卵が先だ」という持論を持っています。

確かに「卵」がある限りはその親がいるはずで、親がいないと「卵」は産まれません。ですが、私は「鶏がいなければ鶏の卵は産まれ得ない」という前提は間違っていると思っています。


ある科学者が「母鶏がいてこそ、きちんとした卵ができる。したがって、鶏が先。卵は後」 という論理を提唱していました。ですが私から見るとこの結論自体がもはや矛盾しています。

この論理では、母鶏が先なのですから、この母鶏が生まれた卵は「鶏ではなかった」という事になります。生まれた卵がすでに鶏の卵だったのであれば「卵が先」になりますからね。

ということは、この科学者の言う定義をそのまま解釈すると、母鶏は産まれた時は鶏ではなかったのに、自分が卵を産む段になった時に鶏に変異していた事になります。

さて、もしそうだとすると、何らかの変異を持って成長の途中で「限りなく鶏に近い何か」から「鶏」に変わったとした場合、それを「鶏」と呼ぶかどうかが焦点ですね。

私の持論では、それは「鶏」ではなく「鶏と全く同じ性質を持った、別の生き物」です。 成長過程での変異はあくまで異常変化であり、純粋な新種と呼ぶべきではありません。 そして、その変異した鶏が産んだ卵が、初めての純粋な「新種(=鶏)」だと考えるべきでしょう。

また、鶏という種は「一個体」ではありません。一個体だけ途中変異の異常体が発生しても、通常はその個体が死ねば終わりです。種としては何の変化もしません。

この学者の言うとおりだとして、この異常体をいちいち新種と位置付けてしまうと、特殊な一個体は全て新種となってしまい、種の概念自体が崩壊します(種とは個体を指す言葉ではない為)。だから、種の始まりは途中変異した親ではなく、継続的な種としての特徴をもった一番最初の「卵」であるべきなのです。

これは鶏の研究がどうとかという話ではなく「種」という言葉の概念論です。「鶏という種が、親から始まったか、卵から始まったか」を問うのであれば、それは「卵」でなければならない。という論理です。

ちなみに、この種という区分も、所詮人間が必要あって付けているだけで、実際自然界に明確な種の区分がある訳ではありません。だから、あらゆる種の進化・変化上の線引きは明確にはできないのが本当のところですね。

ただ、どちらが先かをあえて決めるとするなら、それは親ではなく子でなければおかしいでしょうというお話。

イノブタではない親からイノブタの子は産まれるんです。

【宗教】手をかざすと病気が治ったという欺瞞的エピソード

ちょこちょこ郵便ボックスに放り込まれる宗教のチラシ。

掌をかざしたら白血病が治った。とかいう奇跡エピソードが載ってたんだけど、こういうのホント好きになれない。

仮に、仮にですよ? 掌をかざしたら白血病を治せるような奇跡の力を持ってる人間がいるなら、その人は病院に常駐して次々と白血病患者を治すべきなんですよ。

「黙々と、誰に評価されなくても、自分の奇跡の力を信じて、苦しむ人を助ける」

それこそが、本当に素晴らしい力の使い方じゃないかね?

「特定の人しか治さず、それを宣伝に使って、宗教の布教を図る」

この時点で、どうしても納得いかない。


宗教が「多くの命を救うために、少ない命を犠牲にする」なんて政治家みたいな打算をし始めたら終わりです。未来に多くの人が死ぬ可能性があっても、今、目の前にある一つの命を見捨てない心が宗教家には求められるのではないでしょうか?

だとすれば、目の前の患者を無視して布教活動をしている暇なんてないはずです。不治の病を治す奇跡の力が本当にあるのだとすれば、次々と病院に運び込まれる患者を治し続けるべきです。

違いますか?

正直、こういう側面があるから宗教の奇跡話やら布教活動には欺瞞しか感じません。

本当に人の幸せを願うのに、でっち上げの奇跡話は要らない。

嘘か本当か分からないものを盲目的に信じることなく、ただ目の前の事実に対してひたむきに生きる人々の方がよほど素晴らしい。


人が正しく生きるのに宗教が必須だと考えるのは、宗教家たちの驕りです。そして現代においても、宗教が1000年前と大きく変わっていないのは宗教家たちの怠慢です。

宗教はどこへ向かうべきか。何を目指すべきか。

それを考えず、経典や戒律を守って生きるだけの宗教家は宗教家ではありません。ただの「信者」です。

現代人は欺瞞から逃れられない宗教によって生きるのではなく、思想や哲学によって生きるべきです。神や奇跡が「真実」であった時代とは異なるんです。

人類の長い歴史の中で捉えるなら、宗教を捨て去る事が、宗教家が行うべき最後の尊い活動だと思います。

それがいつやってくるかは分かりませんし、難しい行為だと思いますが、ただ宗教にしがみつくのはもっとも宗教的行為から遠いと思います。思い、考え、自らの歴史を批判し、それゆえに苦悩する。そうした真摯な取り組みが大事です。

ですから私は、宗教家は宗教家であるがゆえに、宗教を捨てなければいけない日がいつかやって来るはずだと考えています。

イエスも仏陀も、既存宗教を批判し、宗教からの脱却を図ろうとしました。現代のイエスや仏陀が、宗教家達の中から現れなければいけません。

何らかの宗教を信仰している人に言いたい。

「信者であるな。宗教家であれ」

【結婚】披露宴を「祝福してもらう為の場」だと勘違いする人達

結婚式に続いて、次は披露宴。

披露宴とはwikipediaによると結婚(婚姻)を広く発表するため、親戚・知人・友人らを招いて催す宴会とある。

wikipediaが信用に足るかどうかっていうレベルでもなく「まぁ、そうだろうね」と共感できる定義だよね。

で、読んで字のごとく、披露宴ってのは自分たちの結婚を披露する。お伝えする。という事であって「自分たちの結婚を君らに祝福させてやろう」っていう高飛車なものではない訳。

本来であれば「私たちは結婚しました」という報告を関係する人たちの各家庭に出向いて、報告とこれまでの感謝と、これからのお願いをすべきだと思うね。でも、なかなか各家庭に出向くっていうのは現実的じゃない。

そこで、大変申し訳ないが、一堂に会する機会を用意するので来てもらえないでしょうか?とお願いしている訳だ。

本来自分で出向かなきゃいけないのに、ご足労願う事になる訳だからそれだけで本来は失礼な話。

そこで、せめてわざわざ来て頂いた感謝の気持ちとして、食事やお酒を用意しておもてなしをする訳だよね。そこには、新郎新婦の大きな感謝の気持ちがなきゃいけない。

さて、翻って一般的な披露宴を見てみよう。

「わざわざ来てもらってすみません。本当はこっちから伺わなきゃいけないんです。せめて、おいしい食事を召し上がっていってください。」

っていう気持ちがちゃんと反映されてるか?

新郎新婦が「みんなにお祝いしてもらいたい」って気持ちだけでやってないか?

でっかいケーキにナイフを入れ、ロウソクに火を点けてまわり、友達に歌を歌わせ、ドレス着替えてくるからと客を置き去りにしたまま席を空ける。下手すれば祝電の読み上げやお祝いの言葉が述べられているのに新婦は着替えに行ってるなんて事態まで起こる。

それらは、ひょっとして自分たちが「気持ちよく」なる為にやってるだけじゃないのか?

もしそうだとすれば、また結婚式と同じ問題意識を持って欲しい。

大事なのはHOWじゃない。WHATだ。

披露宴楽しそう

どんな内容にするか

あれしたい。これしたい。


これはダメ。失礼。無礼。


自分たちはどのようにして感謝の気持ちを述べ、結婚の報告をするか

自分が訪問するか、それとも集まってもらうのか。

真剣に考えて、やむなくみんなを集める方法を選択したい。
でも、自分たちの都合の為に、みんなを集めるというのは本来無礼なことである。

代わりに、感謝の気持ちを込めて精一杯もてなすべきだ。

じゃ、どのようなもてなしをしようか。


そこで初めてHOWが出てくる。この流れを勘違いしちゃいけない。

いろんなもてなし方があると思う。自宅に呼んで、自ら二人で料理を作ってもいいと思う。一生懸命練習して、自分で何か音楽を演奏するようなイベントを考えるのも面白いかもしれない。

そうした検討の結果、披露宴という形が出来上がるのであれば否定はしない。

みんなが持ち寄る一人数万円のお祝いを無駄にしちゃいけない。自分たちが気持よくなる為に、そのお金が使われるような事があるのは失礼だと自覚すべきだろう。

遠くから時間とお金を割いて来てくれた人に対して「自分がケーキにナイフを入れるところを見せる事」で感謝の気持ちが表せているのかどうか。「自分が30分退席してドレスを着替えてくる事」で感謝の気持ちが表せているのかどうか。これが自分たちが考えた「おもてなし方法」だと自信を持って言えるかどうか。吟味するべきじゃないかと思う。

ちなみに私の場合は、家族と一部の知人だけに報告する為に、結婚報告会という食事会を催した。これも本来はあまり乗り気ではなかったが、両親からの提案もあり自分が納得できる範疇で行った次第である。お祝いにお金も頂戴したが、最大限食事に還元できるようにした。こうした考え方について、結婚式同様、妻が同じ気持ちを持っていてくれた事は幸いだ。というか、むしろ妻の方が最後まで「やる必要ない」と反対していたのだが。

みなさんも、披露宴を行う時には今一度考えてみて欲しいと思う。何も奇をてらった、人と違う事をやれと言っているのではない。そもそも「何の為に」「何をするのか」それが出発点でなければいけないということを理解して欲しい。

多くの人間の時間とお金を遣わせるのだ。それだけの強制力をはたらかせるだけの価値と意味を理解しているのかどうか。自分自身がそれを理解できていない程失礼なことはないということを初めに知るべきだ。

その結果、披露宴の場で皆が祝福してくれるとすれば、それは素直に受け入れれば良い。

【結婚】信じてもいない神に誓う人達

教会でも、神社でも同じなんだけど、要するに神に誓ったり、神の許可を得たりする行為が嫌いです。

私は「神はいない」と心底思ってるので、そんな私が「神に誓う」なんて行為は完全なる大嘘であり、欺瞞な訳。

ただね。「神がいる」と思っている人にとって「神に誓う」という行為は矛盾はしていない。むしろ今回は普段「神はいない」と思っているクセに、こんな時だけ「神に誓う」という矛盾した人たちを批判したい。

そもそも、そういう「信じてもいない神に結婚式で誓った」という無責任な人たちは結構多いと想像してます。貴方は違いますか?

大体「思ってもいないこと」を、いけしゃあしゃあと人前で(それも神妙な顔で真面目に)誓ってしまうなんて、もしくは「誓ったフリ」をするなんてのは、そもそも集まってくれた友人や家族に対して失礼だと思う訳ですよ。

これから、結婚し、新たな家庭をつくる。そして、それは互いの両親はもちろん、いろんな人間関係を新たに築いていく。だから、きっときちんとした場所(イベント)を設けて、大切な人々の前で報告したいって思うわけだよね。

そういう誠実な場所に「嘘」や「欺瞞」なんかを取り入れるべきじゃないと思うんだな。

報告するなら、堂々と、自分が思ってる気持や決意を報告すればいい。わざわざ嘘偽りの演技を報告する必要性がどこにある?まして、それは本質的な意味では来てくれた人に対する「侮辱」だと言う事になぜ気づかない?

「私は神に誓います」なんて神を信じてない奴が言うんであれば「じゃ、俺はあそこのロウソク立てに誓います」って言ってもおんなじこと。(自分にとって)価値のないものに誓いを立てる。というのは、その誓い自体が価値のないものだし配偶者をバカにしているようにしか思えない。

自分が以前より大事にしてきて、本当に思いの強い対象に対して「誓う」なら重みも感じるけど今まで深く意識した事も、大切にした事もないようなものに対して「私はこれに誓うよ」とか言われても意味がわからない。(お前を愛する事をあのロウソク立てに誓うよ。って言われたら、物凄くバカにされてるように思わないかね?)

どうせ誓うなら、興味もない神じゃなく目の前にいる私に誓えよ。と思う。

「いや、それは、まぁ、そういう決まり事なんだよ。きっと」みたいないい加減な気持ちなんだったら、それも理解できん。

結婚って、君たちにとってそんないい加減なもんなのか?自分の意志や思いと反して「さらっとこなせばいい」っていうような安っぽいものなのか?あるいは、学芸会みたいに演じて「あー。それっぽくできた」って言うレベルのもんなのか?そんな安っぽいものなのであればやらんでいい。高い金掛けて、忙しいみんなをかき集めて実施するだけの必要性もないし、集まってくれた人に失礼だ。

最近は「人前式」なるものも一般化してる。神に誓うのではなく、来てくれた友人、両親などに誓うというもの。でも、それも意味の後付けじゃないかどうか考えて欲しい。

「人前式」はいわゆる「自宅結婚式」と近いスタイルであり「神前式」よりも古来、村社会での結婚式のあり方だったとの反駁もあるかもしれない。また、みんなの前で結婚する事を誓いたい。と心から思う者もいるかもしれない。だから、はじめからその思いで「結婚式」をしたい。と思うなら、それはとても良い事だと思う。

でもね。それが「結婚式はする。だけど神前はイヤだから、人前にしよう」みたいな気持ちだったとしたらこれは順序が逆なの。今行われている「人前式」ってのは、結構、結婚式は行う前提で「こういう方式もありますよ」って後付けで提案されて妙に納得してやってるだけのケースが多いんじゃないかと思うのよ。

じゃあね、根本的な事を聞くけど、そもそも「結婚式」はしなきゃいかんもんなのか?

キミらがやった結婚式は本当に大勢の人をかき集めてでも、何かを伝えたいっていう思いから立ち上げたイベントなのか?その気持ちが最初にあって、その上で内容を考えていったものかね?ひょっとして、その最も大事な大前提について実は何も考えてなかったんじゃないか?って疑問もある訳さ。

私個人としては、大切な人たちを呼ぶ大事なイベントだと考えるのであれば、それこそ、そこはちゃんと自分で理解して納得して行うべきだと思う訳。ホントに大事なのは「こなす」ことじゃなくて「意味と目的を持って行う」ことでしょ。そこがすっぽり抜け落ちたようなイベントは、来てくれた人に失礼なんだという事を理解してもらいたい。

みんな、どのようにするか(How)ばっかり考えて何をすべきか(What)を考えてない。

一番大事なのは「どのように行うか」以前に「何をすべきか」じゃないのか?そこに何の疑問も抱かず「結婚式はやって当たり前」という前提に立って「どのようにするか」ばっかりを拘って考えるのは本末転倒、枝葉末節に過ぎるんじゃないか?

「私たちは結婚式を執り行うべきかどうか」「もしやるとすれば、それはどのような意味を持って行うべきか」正直に言ってそれらについて考えた結果だと思える結婚式には滅多に出会わない。みんな何も考えずに、ただただ「結婚式」を演じてこなしてるようにしか見えない。

私は「キリスト教でもないのにクリスマスを祝うなよ」とかそんな低レベルの事を言ってるんじゃないの。クリスマスなんてただの遊びイベントであり、日常のアクセントに過ぎない。要するに遊ぶ口実にしてるだけだから、どうだっていい訳。更には、大体、本来の意味のクリスマスを祝ってるやつなんて滅多にいないし、だから「嘘の発言」もないし「誰かに失礼」であるわけでもない。

でも、結婚ってそんなただの遊び事とは違うでしょ?

恋人同士でただ街で遊ぶのとは違って、お互いの家族とか呼ぶんでしょ?大事な友人を招待するんでしょ?結婚相手の両親の前で発言するんでしょ?大事な友人や同僚や親戚が、あなたたちの為に集まってくれて、時として祝儀という形でお金まで包んでくれるんでしょ?

それって大変な事なんだよ?

で、私の場合はそんな場所に「嘘」や「欺瞞」は持ち込みたくない訳。まして、それを周囲の人に宣言するなんてことは、自分自身で許せない。だから少なくとも「神に誓う結婚式」は絶対やらない。そして訳の分からない妥協の産物として「じゃ、人前式でやろう」なんて本末転倒な発想には絶対にならない。

「いやいや、まぁ、厳しく言えばそうだけど、実際は当人はもちろん、来てくれた家族や友人も、本気で『神に誓いを立ててる』とは思ってないんだよ」なんて諌められそうだけど、だったら猶更そんな茶番みたいな、学芸会みたいなもん金を掛けてやる価値はないと思うのだがいかが?むしろ神を信じる奴らに失礼だ。牧師や神父や神主に失礼だ。更には、逆にそれをわかっていながら執り行ってる教会や神社も無責任だ。その程度の宗教心でやってるなんざ、その思想の"程度の低さ"が片腹痛い。職業宗教とはよく言ったもんだ。

幸い、私は結婚式をやらずに済んだ。

世間の理不尽な強制に押しつぶされて、自分に嘘を付かずに済んだのでホッとしてる。
でも、これは「結婚式なんかしたくねー」っていう同じ思いを妻が持ってくれてたからです。そんな妻だからこそ気が合って結婚したんだろうけどね。また、双方の両親がそんな二人の思いを尊重してくれた(我慢した訳ではなく、本人たちの考えが大事だと理解してくれていた)ことは幸いでした。